(表示名なし)2011年4月アーカイブ

マクロとミクロの谷

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まだ原発事故が収まる気配がない。
放射能の身体への影響については、安全という意見から危険だという意見まで、実に幅広く議論されている。
個人的にはまだよくわからない、というのが現段階の判断。

ところで、安全とする意見の中で「タバコの方が癌に寄与する」「交通事故の方が危ない」といったリスクの大小を比較するリスク論がある。飛行機事故に会う確率よりも自動車事故の方が危ないんだよ、という話である。
場合によっては「宝くじに当たる確率よりも、交通事故に会う確率の方が高いんだよ」という話のこともある。

<参考文献>
  人でなしの経済理論-トレードオフの経済学

  リスクにあなたは騙される―「恐怖」を操る論理


統計解析に関係する仕事をしている以上、この考え方はわからない話ではない。
わからないことはないが、でも腑に落ちないというか、シックリとこない。

リスク論への反論としては、
 ・計算に使用するデータが偏っている
 ・過去の出来事と進行中の出来事を比較している
 ・避けれるリスクとさけられないリスクを比較している
 ・死者数でしかリスクを捉えていない
 ・人の心を無視している。人でなし、鬼、悪魔!
といったあたりが多い。多いが、これまたシックリこない。

スッと落ちないということはどこかがおかしいんじゃないか。この問題、どう解釈したらいいのだろうか?そうモヤモヤ思っていたところに、池田信夫の落雷の話を読んで閃きがやってきた。

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このようなバイアスが、もっとも愚かな政策を生んだのが、本書のテーマである「テロのとの戦い」である。イラク戦争では民間人を含めて数万人の死者が出たが、テロの犠牲者は全世界で年間300人前後で変わらない。これは1年間にプールで溺死するアメリカ人の数より少ない。平均的なアメリカ人がテロで死ぬ確率は1/10000以下だが、これは落雷で死ぬのと同じぐらいの確率である。

この「テロ」を「原発」と置き換えてみよう。日本で原子力施設の放射能で死亡した事故は50年間で2人だから、1年間に0.04人が死んだことになる。これに対して落雷による死者は年間20人だから、あなたが原発で死ぬリスクを恐れているとすれば、落雷で死ぬリスクをその500倍恐れたほうがいい。

世界は史上最も安全である - 『リスクにあなたは騙される』 池田 信夫
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計算に使っているデータに文句を言いたいところだが、ぐっとこらえて、正しいと仮定する。
根拠データが正しければ計算結果は文句なく正しい。
計算は正しいが結果の解釈が正しくないのだ。問題は次の2点だ。

(1)1年間の平均として時間を均して考えている。
(2)様々な地域で様々なライフスタイルの人々を平均している。

今、窓の外を見て欲しい。雨が降ったりゴロゴロ鳴っていなければ落雷の心配は無いだろう。雨が降っていても、避雷針のあるしっかりした建物の中にいれば不安は小さい。
一方で、例えばゴルフ場でゴロゴロ鳴ってきたら落雷の心配をするはずだ。
今この瞬間、私が居る場所では、落雷の心配もなければ交通事故の危険もない。プールでおぼれることもない。タバコの害すらない。身の危険と言えば、こんにゃくゼリーで窒息するか地震による火災に巻き込まれるくらいではないだろうか。
このような状況下では(消去法的だが)放射能の危険はかなり上位に来る。落雷で死ぬリスクよりも恐れて当然だ。落雷の心配をする方がバカだ。
1年の最後にさらされたリスクを総決算したら、落雷で死ぬ可能性の方が大きいのは事実かもしれないが、今はそうじゃない。これが、実感と合わない1つめのポイントだ。

次に、クルマが生活必需品の地域は別だが、都内であれば、自宅から職場や商店まで車道に近づかずに移動している人も多い。タバコの副流煙を全く吸わずに過ごせる人もいれば、家族にヘビースモーカーがいる環境もある。そういった違いを均して考えているところが、実感と合わない2つめのポイントだ。

時と場合を加味したミクロの状況と、それらを合成したマクロの状況の間には大きな谷がある。
アンケートに代表される多数決型のマーケティングが眉唾で見られるようになってきた原因はこの谷にあるのではないだろうか。中途半端で気が利かない、かゆいところに手が届かない商品が生まれてくるのは、時と場合、加えてその時の気分といったミクロの状況を丸めてしまっていることが原因ではないか。

閑話休題。話を放射能に戻すと、晴れた日に耐震構造のスーパーで買い物をしている時に警戒しなければいけない安全リスクとしては、食品汚染による内部被曝というものは、財布を落とすリスクや家計簿が赤字になるリスクに次ぐテーマなのではないか。
もちろん、その心配しなければいけないリスクの絶対値がどのくらいの大きさで、気苦労するほどの価値があるものかどうかは考える必要があるけれど。

ちなみにマクロ視点で良ければ“放射能汚染の値段”を出すことは簡単だ。
福島産ホウレンソウと西日本産のホウレンソウを並べて売って、売れ行きが同じくらいになるように価格差を動かしていけばすぐに出せる。その差額を「風評被害」とやらの補償額推計につかえるんじゃないか。

こういったことに統計解析を使うべきだ。


安心と危険の狭間で

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福島第一原発の問題が長期化している。
極端な意見が目立つせいもあって、「放射能なんて怖くない」「タバコや自動車に比べたらずっと安全」といった安全楽観派の人と、「内部被曝とか生物濃縮とかヤバイでしょ」といった危険不安派の人とに二分されている印象がある。

周りと話をしていて感じるのは、少なくとも会社や仕事関係者との雑談では「不安ですよね」とか「ホントはヤバイんでしょ」といった話題をしにくい感じだ。
確率論で考えることが多い仕事柄のせいもあるかもしれない。普段から宝くじを買うやつはバカだ、計算できないアホだ、といった話題が多い業界なので仕方ない。ある意味で正規分布や標準偏差の原理主義者の集まりだから稀有な事象には弱いのだ。
そんな空気感もあるものだから、「早く原発が収まってくれないと“経済”がヤバイですよね」みたいな話しか展開できない。

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安全楽観派と危険不安派の違いがどこにあるのかを分析してみたらどんな感じになるのだろう。
すごく乱暴だけど、両極端を要約すると以下のようになるのではないだろうか?

安全楽観派
「危険性は証明されていない」(だから大丈夫)

危険不安派
「安全性は証明されていない」(だから心配してる)

結局のところ『良くわからない時にどう考えるか』といった価値観の問題のように思う。
原発事故の放射能の影響なんて事例は数件しかなく、それぞれ状況も異なることから、データの解釈の仕方なんていくらでもできるだろう。

ただ、議論として考えた場合、安全性の証明を求める危険不安派は『悪魔の証明』(無いことの証明)を求めていることになるので筋は悪い。
安全楽観派の人はヤバイ事象を目にすれば考えを変えるだろうが、危険不安派の人はいくら安全宣言を受けても考えを変えないのではないか。そういう意味でも危険不安派はタチが悪い。
そういう状況もあって、社会では危険不安派を名乗りにくい空気になるのだろう。

自分も含め大半の人は恐らく安全楽観派と危険不安派の狭間を行ったり来たりしていて、なんだかストレスも溜まってきたりして疲れてきてるのではないだろうか。
それこそ正規分布のグラフように山があるのだと思う。

2011年4月5日現在、まだまだ収束に向かっているとは言い難い状況で、これからどうなるのかもよくわからない。
どのくらいの期間、被曝を続けなければいけないのかもまだわからない。
最悪の事態とやらがどのレベルなのかも確信的なことは言えない。

注視することくらいしかできないのかなぁ。

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