マーケティングに感じる嫌悪感

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 何気なく手にとって読んでみた「平気でうそをつく人たち―虚偽と邪悪の心理学」という本の中に、悪という単語"evil"を逆から読むと"live"だという記述があり、ほぅ、と感心した。プロローグか第1章か、とにかく出だしの部分にそんな記述があった。
 この本の著者はさらにそこから考察を進めて、悪とは何か?を定義していく。端的には生命を奪うことが悪であると解釈するのだが、肉体的な生のみならず、精神的な生を奪うことも悪だと記述されていたことから思考がジャンプした。ちなみに精神的な生を奪うとは他人を操り人形のように扱うことだと書かれていた。
 
 そう、確かに退職勧告でやりがいの無い単純労働をあてがって精神的に追い込むような話を聞くと何となく嫌悪感を抱く。身体や生命に危機感を覚える暴力的なことも悪だが、心を殺すことも十分に悪だ。
 こうやって文章で整理されたことで、なんとなく嫌な気分を感じていた事象を説明する補助線を得たような気分になって、ついつい、普段からなんとなく嫌な気分を感じていた事柄を解剖してみようかと高揚したのだ。

 普段からなんとなく気色の悪い感覚を抱いていたものとは「マーケティング」に他ならない。特に近年はなにか他人の財布をムリヤリ開かせるような心理戦が活躍していることもあって、なんだかなぁと感じていた。
 アンチエイジングや成人病などを煽る不安マーケティングなんて「水子の霊が・・・」と言ってる宗教団体と同じじゃないか。壺でも判子でもなんでも売ればいいさ。みたいな感じでどうも好きになれない。品がないのが気に食わない。
 金融系をはじめ、行動経済学の意思決定モデルを使いこなすことで弱者から見えないように大金を巻き上げている。最近では脳の反応まで解析が進んでいる。うかうかしてると要らないものを買わされたり、ボッタクられたりする。財布を開く時は常に警戒心が必要だ。
 こんなことをしているくせに、企業と生活者の信頼関係を築きたいと本気で望んでいるのは滑稽ですらある。心理テクニックによる信頼構築なんてありえるのだろうか?

 すっかり愚痴ってしまったが閑話休題。要するにマーケティングに感じていた不快感とは、できるだけ本人が知覚しないようにこっそりと消費に誘導することへの嫌悪感であったのだ。と整理できた。
 ある商品を知って消費するまでの流れをモデル化すると『認知−関心−理解−判断−行動』と単純化できる。そもそも存在を知らないことには話が始まらないし、関心を持った事柄を理解しないと判断できない。関心と理解に基づいて必要だと判断した人が消費行動に移行する。
 この流れの中で何をどうしたら悪を感じるのかを考えたところ「判断」のステップではないかと思い至った。不安マーケティングは論外だとしても、例えば肉売り場の照明の色を考慮するとか、レジの前についつい手にとってしまうようなアイテムを陳列するなどの工夫は −まぁ駆け引きの範囲内だろうが− 消費者の判断力に働きかけるという方向性がある。
 もう少し解釈を拡げると、不要なものを買わせる、バリュー以上のプライスで買わせる、そのために錯覚させる、という部分に悪を感じているのだと思う。
 
 こういった漠然とした嫌悪感を内包したマーケティング活動はいつかどこかでハレーションを起こすだろう。マーケッターの心得として、認知度を高め選択肢を増やすところまでは善だが、その先の選択に介入することは悪であると認識しておくことが必要ではないか(もちろん二元論ではなく、分厚いグレーの層の中でのベクトルとして)。


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このページは、が2012年5月 2日 19:23に書いたブログ記事です。

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